Menu Close

震災から10年の日とあの時の記憶

なんというか、いろいろ思い出したり思ったりで感情が揺れ動かされまくり。

2021年で、今日震災から丸10年。
カナダでは11日深夜0時46分が震災の時間だったので、その時間追悼式をYouTubeで見ながら黙祷しました。

いろんな特集を見たり、震災3ヶ月後にボランティアで行った岩手の山田町と大槌町のことを思い出したり、ほんとあらためて切なくなりました。
Facebookなどの全然関係ない投稿なんかを見ながら、あの10年前の日本でのことを覚えてくれてるカナダの人って、どのくらいいるんだろうなって思ったり。

私がいた秋田は震度5強だったとはいえ、東北6県の中では最も被害が少なかった県。
停電や物資、ガソリンなどの不足はあったけど、被害が大きかった太平洋側を支援する立場で、震災直後から救援へと向かう人たちがいました。

6月に一度だけ山田町と大槌町にボランティアに行き、ライブ、炊き出し、マッサージなどさせてもらいました。

岩手県山田町避難所前の庭で(2011.6.10)

仮設住宅にいた被災者の方達はみんな笑顔で、逆にこちらを気遣ってくれたりして何だかいたたまれなかった。
明るく気丈に振舞っている被災者の方たち何人かの肩をマッサージしたら、本当にガチガチに固かったのを覚えてます。
それまでは終始笑っていた方達が、マッサージをしている間に、自分たちの体験をぽつりぽつりと語ってくれました。
その方達の身体から、精神状態が伝わってくるような気がしました。

山田町で見た親子(2011.6.10)

また、その経験の中で強く感じたのが、裏で支える人たちの偉大さ。
メディアなどでは、募金や支援活動を行う有名人などの姿がたくさん報道されてました。
そういった支援活動が表立って注目される人とは逆に、裏方で黙々と現場を支える人たちをたくさん目にしました。

廃墟となった土地でガソリンスタンドの営業を続ける人。
仮設トイレの管理をする人。
瓦礫の山を片付ける作業員。
現地へ出向いて、炊き出しなどの支援活動を継続して行う団体。

大槌町周辺のガソリンスタンドで働く人(2011.6.10)
ボランティアへ向かう途中の道路で(2011.6.10)

表立って注目されることのない多くの人たちが、気迫を感じられる程に支援活動をしている姿を見て、この人たちって本当にヒーローだ、すごいなと。

被災地の様子がメディアで報道されると、ひどい、悲惨、悲しい、そんな風に結局遠目で感傷的に見ていた気がします。
でも現地では無情に現実が広がってて、悲しんでいるどころじゃなくそれに立ち向かっていかなきゃいけない。

岩手県山田町の風景(2011.6.10)

東北全体、そして日本全体は、「がんばろう東北」というスローガンで復興に必死になっていました。
常に「がんばれ」「負けるな」の言葉が行き交ってて。

それは確かに大切なことだけど、「みんなが頑張っているから」「もっと大変な人がいるから」と、弱音を吐けない空気も作り出されてた感がありました。

テレビの特集では、被災者の人のインタビューで
「みんな頑張ってって言うけど、これ以上何をどう頑張ればいいの」と泣いている女性の声も聞き、深く考えさせられました。

原発で地元を離れざるを得なくなった人たち、そして子供たち。
子供のインタビューは、何かを強調するわけでも感情的なわけでもなく非常に淡々としていて、それがむしろものすごく胸に響きました。

いろんなことを考えさせられて、震災の曲をその後何曲か書きました。
言葉だけじゃ何とも伝えきれないであろう感覚が、歌にした時もう少し広がることを期待。未発表だけど、ちゃんとレコーディングしたいと思います。

ここからは、自分が体験したことを振り返って書きます。完全個人的な話ですが、もし読んでもいいよ、という方は読んでいただけたら嬉しいです!


私は翌週末の3月19日と20日に開催予定の、チャリティーイベントを企画中でした。
2010年に起きた奄美大島豪雨災害。その時期に奄美を訪れて地元の人たちに大変お世話になった自分は、せめてもの恩返しにと災害へ募金するためのイベントを企画運営し、ポスター、コンサート、物産展の準備もし、秋田の会場側と奄美の関係者両方とやりとりをしていました。

3月11日のその時は、開催予定だった秋田港にある会場の関係者へ、必要書類の印鑑をもらいに行っていました。
2階のベンチに座っていたところ、地震。

吹き抜けから見下ろした1階の会場では、「秋田の昔話」みたいなイベントが行われていて、ステージを囲んでお年寄りたちがたくさん。
ざわめく会場と、「動くな!座ってれ!」と叫ぶ誰かの声が。

2階にいた自分は、そのお年寄りたちの頭上の照明がものすごい勢いで揺れているのが見えて、「逃げて!」と叫ぼうか叫ぶまいかと散々迷いつつ、言葉が出なかったのを覚えてます。

そうしているうちに避難できるくらいの揺れにおさまったので、建物の中にいた人たちはみんな外へ。
目の前には、駐車している車やバスが揺れている光景と、広がる海。そして雪が降っていました。

日本海中部地震の津波でたくさんの命を失っている秋田では、地震が来たら絶対海には近づくなとさんざん教えられていて、防災訓練もたくさん受けていました。

「まずい、ここ港だ。逃げないと!」
と思っていたら、周りのラジオを聞いていた人たちが
「どうやら震源地は太平洋側の方らしい」と。

その時、奄美大島の観光物産関係者の女性から携帯に電話が来ました。

「今地震があったってニュースで見たんですけど、大丈夫ですか?!イベントどころじゃないんじゃないですか??」
「すごい揺れでしたけど、もう揺れはとりあえずおさまって大丈夫です。イベントも大丈夫だと思うので、物産展用の商品を発送して頂けますか」

そう伝えたところ、相手は震える声で
「今、東北の太平洋側が大変なことになっています。奄美の災害どころじゃありません。この状況で奄美へのチャリティーなんて申し訳なくてとんでもないです。物産も送ったところで届かないと思います。お願いです、キャンセルしてください」と。

その時は事の大きさが全くわからず、それまで必死で準備して来たイベントのキャンセル依頼にただ落胆して「わかりました」と電話を切りました。
災害イベントが別の災害でキャンセルになってしまうことに、ものすごく無常を感じました。

そしてすぐ車に戻り、港から離れて自宅へ向かう途中に目に入って来たのは、傾いた標識や電気が切れた信号機。
家に着いてから飼い犬の無事を確かめ、一緒に電気の切れたこたつに入って不安をしのぎました。

その日岩手の旅館にバス旅行へ出かけた両親は、山間の道を走っている時に地震にあったのだそう。
山道のカーブが急だったこともあって、旅行客一同「カーブの揺れが大きいなあ」と思い地震に気づかなかったのだとか。
旅館に着いたら電気も付いていなくて不審に思い、そこで初めて知ったのだそうで。
どんだけ・・・

夕方6時にはもう暗くて、カナダで買ったヘッドライトがこの時相当活躍してくれたっけ。
暗いし寒いしどうしようもないので早々にベッドに入っていたら、福岡の友人から携帯へ電話が。

「電話繋がってよかった!大丈夫??太平洋側の方大変なことになってるみたいだよ」
「そうなの??こっちは停電でニュースも見れてないし、雪降っててめっちゃ寒いし、何もできないからベッドの中にいるとこ」
「寒いなら身体動かし!走ってあっためなよ!」
「いやこんな暗闇で走ったら怪しいし危険だし」

そんなこと話して半分笑いつつ、そうしているうちようやく両親が帰って来ました。

家にあった反射板ストーブ、懐中電灯やろうそく、カセットコンロなどを出し、停電になった数日をしのげました。

ガソリンスタンドに並ぶ長蛇の列(秋田市)

12日、新聞の一面に見た津波の写真と、原発の事故の衝撃。
ひっきりなしに来る余震と、先の見えない不安感。
日本が終わってしまうんじゃないかと思いました。

ネットが繋がらない中、父親の携帯データを使ってニュースやFacebookをチェックしたら、カナダの友人たちが私の安否を心配してくれてました。
近所に住む親友は、私が家に一人じゃないかと心配して駆けつけてくれたりして、人と人の繋がりやその大切さが本当に身にしみました。

秋田県庁に救援物資がたくさん集まってた
カップラーメン類はスーパーからすぐ消えた

元々はカナダの永住権を手にしたらすぐにまた日本を離れるつもりだったんだけど、この震災が、しばらくは日本にいて自分ができることをしようと決めたきっかけにもなりました。

なんだかだらだら長くなってしまったけど、10年経って再度じっくり振り返り、考えさせられました。
心のケア、復興が行き届きますように。

あらためて、震災で犠牲となった方々に深くお悔やみ申し上げます。

Posted in 思うこと - Thoughts

Related Posts

Comment